ほんの記憶19:実存主義とは何か(J-P・サルトル、人文書院)

 テレビコマーシャルで何か言ってたな、サ、サ、サルトルかソクラテスか、いや逆か。みんな悩んで大きくなったと野坂昭如が言っていた、ような気がする。何の宣伝だったのか、もう覚えていない。ウイスキーだったか。半世紀以上も前のことだ。とにかく哲学者というのは小難しいことをいう人種である、まともに聞く必要はない、聞いたって分からないのだから、と思っていた。なのに読む。わからないことがわかっていながら、興味がわいて、読む。なにか面白いような感じがするのだが・・・。まあ、それでよいのだろう。

 ベルクソンの「時間と自由」という本を、哲学を書いた本としては初めて読破したのは30代だったか。ベルクソンも相当に難しかったのだが、なぜか読み終えることができた。その後、同じ著者の「笑い」だとか「物質と記憶」といった作品を読んでみたがまったく理解できず、読了できなかった。「時間と自由」もわかっている部分は少ない。時間ではなく「持続」という、自分も他人も共通するようなものではなく自分だけの尺度がなにより大切なのだ、とわたしは読んだのだが、間違っているかもしれない。小林秀雄が書いた未完のベルクソン論「感想」は読んだ。が、よく分かったとはいえない。小林のベルクソンへの傾倒はそうとうなものだと分かるが(小林は「ベルグソン」と濁った呼び名を使っているが)、心に残っているのは冒頭の小林の「おっかさんという蛍が飛んでいた」といったような不可思議な書きぶりしかない。あとはよく覚えていない。

 哲学というものは難しい、と思わざるを得ない。しかし本当か。読む角度というか、読み、考えるその背景になにか見落としているものがあって、それがために理解できないのであれば、苦労してでも理解したいと思うのだが・・・。言葉が難しいのだ。「実存主義とは何か」に出てくるフレーズで「実存主義とはヒューマニズムである」というのがある。これは、わたしには何のことか全くわからない。読んですぐにわからないところは深く考えずに読み飛ばしてよい、というのがわたしの哲学書の読み方である。同じく、こういう言い方も出てくる。「実存は本質に先立つ」。これは・・・わかりそうな気がする・・・なんとなくわかる。続いて、サルトルはこう言う。「人間は最初は何ものでもない」。ふむふむ。「人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである」

 最初には何もない。世界もない。わたしはわたしがつくったものになるのであり、世界はわたしがつくるのだ。「人間の本質は愛である」と言ったとする。それが正しいかどうか、そんなことは知らない。そう言いたければ、おまえがそうしろ。おまえがそういう世界をつくれ、と。それが実存は本質に先立つということである。わかってくると、サルトルの言うことが気持ちよく響くようになる。音楽のように、いいぞいいぞと掛け声をかけたいような言葉が奔出してくる。なぜ、わかってきたのだろうか。少なくともわかってきたような気になれるのだろうか。結局、相性ということか。著者と読者の相性。これがなければどうにもならぬ。そういうものかもしれない。

 最後に、心に残ったサルトルの言葉を羅列しつつこの項を閉じる。「形成されつつある恋愛のほかに恋愛はなく、恋愛のなかにあらわれる可能性のほかに恋愛の可能性はなく、芸術作品のなかに表現される天才以外に天才はないのである」「人間は自分自身の本質を自分で作り出さねばならない。世界の中に身を投じ、世界の中で苦しみ、戦いながら、人間は少しずつ自分を定義するのである」「この一個の人間が何者であるかは、彼の死に至るまではいささかも言えないし、人類の何たるかは、人類の消滅まで言うことができない」「人間とは、作り、作りつつ自らを作り、自ら作ったもの以外の何物でもない」・・・。