ほんの記憶21:ドキュメント 生還2 長期遭難からの脱出(羽根田治、手記・冨樫篤英、山と渓谷社)

 あいたあ、月に1度はこのコラムを書くと決めていたのに、ずいぶんサボってしまった。なんとかフォローしなければならない。とりあえず、趣味のことを書こうか。趣味といっても今はあまりやっていないのだが、最近読んだ本の中から無理やり引っ張り出した。それが表題の登山本、もっといえば遭難本である。

 わたしが山に登りはじめたのは20年ほど前のことである。四十歳の壁を越えて、さて、どうしたものか。働き盛りという言葉もあるくらいだから働くしかないのだが、しかしまた、働き盛りはまた遊び盛りでもあるのだ。何をして遊ぶ? 飲むか? それはもう長年やっている。もう少し角度を変えた遊びを開発したい。そこでなぜか山登りが浮上した。なぜ山に登ろうと思ったのか、わからない。登山経験はまるでない。小学生のときに遠足で近所の山に登ったことがあるくらいだ。山に登る苦労も、山頂に立ったときの達成感も、何も知らない。それなのに矢も楯もなく登りたくなった。不思議なことだった。

 登山経験がないのだから、本を読んで勉強するしかない。何も準備をしないでいきなり山に入るのは危険な気がした。そこで、登山に関する本を買い込んだ。一つは、ザックや登山靴などの道具をそろえ、実際に安全に山を歩くためのノウハウ本。もう一つが、ここに紹介したような登山のルポルタージュである。これが面白かった。山に登る登らないにかかわらず、たぶん面白い。1カ月に1度程度そのへんの低山に登るような趣味の人から、冬の日本アルプスに挑むプロ級の登山家まで、あらゆる階層を網羅していた。不思議なもので、実力は天と地ほど違うのに、死に直面した場面では、人間はほとんど変わらないということである。そうした人間の本性をむき出しにさせるところが山の魅力でもあるのだろう。

 この本では、実際に遭難してしまったアマチュア登山家の手記も掲載されている。自分が遭難した話などしたくはないだろうが、それをあえてしてくれている。だから面白い。面白いといっては不謹慎かもしれないが、自分の体験談をこれほど赤裸々に語ってくれた人には、そんな気遣いは無用かもしれない。山という存在は不思議だ。泣こうがわめこうが、そこにただある。遭難しようが死のうが、山はただそこに存在する。そういうことを、そういう声を、自分の内に聴くことになる、山は何も言わないのに、自分の心が、自分に語り掛ける。その仲立ちをするのが山なのだ。

 だから人は山に登る。自分との対話なくして、どうしてあんな苦労をして山になど登るものか。(2024年10月25日、未完)