ほんの記憶22:小津ごのみ㊤(中野翠、ちくま文庫)
小津安二郎の名前は知っていても、その監督作品は若いころに「東京物語」を一度観たきりで、特にどうという感想も持たなかった。ただ、最後のあたりでの、原節子と香川京子の会話の場面だけが記憶に残っていた。母親が死んで、さっきまでさめざめと泣いていた長女が素早い変わり身で母親の着物を形見に欲しいと言いだす。そういった場面をへて二人の会話は続く。人は誰もが自分の生活が一番で、親であれ子であれ二の次になっていく。社会でもまれるうちにそのことを当然のように受け入れていくーーそんな内容である。まだ二十代前半か半ばといった年ごろの香川京子(役の名前は忘れた)が少し怒った顔をして思いをぶつける。「いやね、人間って」。それを受けて原節子はにっこりとほほ笑み「そ、いやなことばっかり」と言う。たいして重要な場面でもないと思えるのだが、いつまでたっても原節子の笑顔が記憶から消えないのである。
一場面でも記憶に残る映画が、わたしにとってのいい映画である。その意味で、「東京物語」はいい映画なのだった。あれから何十年たったか忘れたが、無印良品の店で買い物をしていて、その店には本の売り場もあって、つらつら見るうちに「小津ごのみ」が目に入った。無印良品で初めて本を買って帰り、それを読むと同時にアマゾンプライムで映画「東京物語」を観た。映画は、画面の中にとてもいい空気が流れているように感じた。内容は小津自身が言っているように「家族の静かな崩壊」と呼ぶべきもので重いテーマなのだが、なぜか気持ちがよかった。ぎすぎすした気分にならなかった。主役の老夫婦、笠智衆と東山千栄子の一見のんびりした会話に助けられていると思う。ーー「あの子ももっとやさしい子でしたがのう」「なかなか親の思うようにはいかんもんじゃ……欲言やあきりゃにゃあが、まあ、ええほうじゃよ」「ええほうですとも。よっぽどええほうでさあ。わたしら幸せでさあ」「そうじゃのう。まあ、幸せなほうじゃのう」「そうでさあ、幸せなほうでさあ」ーー親は我が子がもっと自分のことを気に掛けていてくれると願っているが、そして気に掛けるといえばその通りなのだが子の思うそのことは親とは濃淡がある。ちょっとつらい話でもあるのだが、なぜかいい空気なのである。そうよなあ、と、うなずきたくなるのである。
エッセイストとしての中野翠は、わたしの中ではベストスリーに入る力量の持ち主ゆえに、期待して読み始めたが、期待通りいやそれ以上に面白かった。小津安二郎は自らの好みに純粋な人と中野は書く。親子の意識のすれ違い、娘の嫁入り話などの単なるホームドラマのネタになりがちな話題を中心に据えて、「おれはこれが好きなんだ」と言い切ってしまう。中野に言われて気づくが、確かに台所は切り取られた風景としては出てくるが、その中の、冷蔵庫があり流しがありコンロがありといったこまごまとしたディテールは出てこない。一切。出てくるのは一枚の絵としてだけ。どうしてだろうか。理由については中野は考察していない。わたしは考えた。この男(無論、小津のことだが)、台所仕事をしたことがないんじゃないか、だから何がどこにあるとかこまごまとしたことはしらないんじゃないか、そう思った。料理もしたことがないだろう。コメの炊き方も知らないに違いない。男子厨房に入らず、そういう時代に生まれ育ったのだ。別にこれは好き嫌いではなく、ただ知らない。そういうことだと想像する。
「おじさまごっこ」。この本の中の小見出しの一つなのだが、しびれるなあ。いやなに、この人(無論、中野のことだが)、なんでこんなに男の気持ちが分かるのかね。この項の書き出しは「女の人で小津映画がしんそこ好きという人は少ない」である。中野自身、最初の頃は好きなような嫌いなような微妙な感情を持った、という。そして、その一番の理由は、「出てくる女の人たちが、古風に美化されたものだったからだと思う」と分析している。女性とはそういうもの、淑やかで、聡明で、品が良くて、というのは小津の理想でしかないように感じたのだろう。こんな女性はもういない、昔話ですね、と言いたいような気分は実はわたしにもある。だが、小津はそんなことは分かっている。小津との共同脚本家、野田高梧の娘さんの立原りゅうの言葉が引用されている。「『彼岸花』の時に私が脚本を読んで、登場人物の女性について『今の女性はそんなことしないわ』というようなことを言ったんです。すると監督が『そんな女は嫌いだ』とひと言。私が脚本について何か言ったのは、その時だけです」。これを受けて中野は「いかにも小津らしい。小津にとっての『リアリティ』とは、たぶん、実際にそういう人物がいるかどうかよりも、自分の好悪の世界にいるかどうか、なのだった」とする。
だから小津映画は「男の映画」なのである。理想化された女性、そこに絡む男たち。その象徴が「おじさまごっこ」だ。映画「晩春」の紀子(原節子)は、父の旧友の大学教授とばったり街で会い、美術展を見た後、教授行きつけの小料理屋へ赴く。そこでの会話。若い女性と再婚したばかりの教授に紀子はお酌をし、笑いながら「おじさま、不潔よ」と責める。いやあ、まいったまいったと頭をかきながらまんざらでもなさそうな教授。うまそうに杯をあける姿に、男たちは、わたしをふくめ、憧れるのである。きれいな若い女性に「不潔」と言われながらお酌してもらい、いやあ、と笑いながら酒を飲むのである。うれしくないわけがなかろう。こういう場面が、主たる筋の脇にちりばめられるのが小津映画なのである。
冒頭、わたしの記憶に残る原節子の笑顔とセリフを挙げているが、あの場面がなぜいつまでも消えないのか。あの場面こそ、原節子の魅力を凝縮して表しているからではなかろうか。原節子には「永遠の処女」という常套的な形容句があるという。こういうキャッチフレーズはどうも好きではない。子どもの頃、父から聞いたことがあり、小津映画を長いこと単なるホームドラマとして低めにみていた原因はこんなところにあるのかもしれないと、いま気づいた。原節子の魅力はそんなところにあるとは思えない。壁の向こうまで見通すような大きな目。大きな意思的な口。白いブラウスが似合うきりっとした姿勢が美しい。人の世の理といったものをきちんと受け止めてきた自律的な女性として描かれていると思うのである。だから彼女の顔は、真正面からとらえた相貌が一番美しい。
そのような女性だからこそ、そのセリフを深読みして楽しめるというもの。「東京物語」で冒頭に挙げた場面とともにいつまでも記憶に残りそうなのが、未亡人の紀子(原節子)が舅(笠智衆)に胸の内を明かす有名な場面である。いろんな解釈があり、中野翠がそこに割って入って堂々と論じている。「わたくし狡いんです」という紀子の言葉には、わたしも感じるものがある。<続く>