ほんの記憶15:充たされざる者②(カズオ・イシグロ、ハヤカワ文庫)

 主人公の名は「ライダー」。属性の説明は皆無。見た目や性格についての記述もない。わたしは勝手に50代の中年男性と決めつけていたが、途中で何も根拠はないことに気づいた。高名なピアニストだということはわかる。しかし、どこの生まれで、どういう幼少期、青年期を過ごし、今の地位に至ったのかといったことは説明されない。それがわかるような描写もない。この、いわゆる「顔のない」主人公が小説の舞台となる町へ来たのは、ピアノを弾くためだ。町の「危機」を救うために。しかし、どういった危機なのか、誰に呼ばれたのか、具体的な背景は説明されない。これは説明が一切ない小説なのである。

 ライダーは町民の期待を負い、演奏することになっているのだが、日程など詳細なことはライダーにもまるで分らない。人々は彼を尊敬している。だからこそ、一目でも会って話したい、ぜひ聞き届けてもらいたいと小さな願い事を口にする。その願い事というのが、町民にとってはささやかなものでも、演奏が迫るライダーにとってはそれほど小さなことではない。ライダーにはその他にも片付けなければならない課題(主に家族の問題など)が山積しているのだ。彼は手早く、効率的に課題を処理し、演奏会の会場に向かおうとするのだが、思い通りにいかない。町民の願い事は容易に解決せず、ライダーは町の中を足早に、あるいは車でぐるぐる回るばかりなのだ。

 なにかに似ている。昔、読んだことがある。そうだ、カフカだ。カフカの「城」に似ている、わたしはそう思った。城に向かうKは一生懸命に城にたどり着こうとするのだが、いろんな問題が起きて、なぜか城の周辺をぐるぐる回るだけなのだ。もどかしい、どうしてうまくいかないのだろう。どうしてこう次々に邪魔が入るのか。何が悪い? 自分がいけないのか、それとも世界が狂っているのか。わたしなら世間のせいにしてしまいたいところだ。願いをかなえる条件が整わない、そもそも何が願いなのかもわからなくなる。本当に自分はそれを欲していたのか、と。

 不条理、ということか。不条理こそが人生だ、ということか。演奏会場に行くことさえできない。城にはたどり着けないのだ。才能? 努力? そんなものはなんの関係もない。わたしたちは世界が許してくれなければ何もできないのである。物語のラスト、その少し前、ライダーは町民たちに言う。「いろんなことが計画どおりにいかなかったんです。あなた方がお聞きになっていないとは驚きですが、しかしまた、おっしゃるようにこのような状況のもとでは、おそらく・・・申しわけないんだが、実のところいろんなことが――あなた方のために用意していた短いスピーチだけでなく、たくさんのことが、計画どおりに進まなかったんです」

 世界に対しては一個の人間など無に等しい。どれほどの実力があり、どんなに周到に準備しても、そして状況の変化に柔軟に対応しているように見えても、どうにもならない逆風、突風には屈する。高名なピアニストも、無名の町民たちも、わたしやあなたも、それは変わりがない。ライダーの演奏会には彼の年老いた両親も訪れるはずだった。しかし、彼は両親に会うことさえかなわなかった。登場人物の何人かは、ライダーの分身とも思えると、解説に書いてある。そうかもしれない。いや、違うかもしれない。人は、他者を見るとき、自らの世界観で見る。いうなれば自らを彼、彼女と重ね合わせる。他者の認識や価値観については表層をなぞるだけで、その芯にあるものはわからない。彼、彼女はいま何をおもっているのか、私が乗り移っていかなければ理解はおぼつかない。他者をも私にすることが他者を認識することなのだ。

 ライダーを取り巻く登場人物は皆、過去の過ちを嘆き、どうしようもない悔いを胸に抱えている。彼らは泣いたり嗤ったりしながら、ライダーに言い寄って来る。なんとかしてほしいと。しかし、その願いをかなえてやれない彼はどうすればいいのか。最後、電車の中ですすり泣くライダーに、乗客の一人――ジッパーのついた丈の短い上着を着ているところからかれが電気技師と推定した男――は彼に言う。「なあ。いつも最悪に思えるのは、それが起きているときさ。だが過ぎ去ってみれば、何であれ思っていたほど悪くはないものだ。元気を出しなさい」。なぜか電車の中で供されるビュッフェでの朝食を電気技師に勧められたライダーはにわかに気分がよくなってくる。そして物語の最後は、次のような一節で終わる。『わたしはコーヒーカップをなみなみと満たした。それから片手でそれを注意深く持ち、もう一方の手にはたっぷり料理をのせた皿を持って、自分の座席へ戻ろうと歩きだした』。これは夢か? 彼は本当は座席にくず折れるように座り、泣きつかれて寝ているのではないのか。どう読めばいいのか、わたしには分からなかった。この小説は最初から最後まで、読み方は自由だ。読者の自立性に委ねられている。

 この小説は、長すぎる、退屈だ、といった批判から勇気ある挑戦、これまでの最高傑作といった称賛までさまざまだったらしい。カズオ・イシグロ自身はブッカー賞受賞後6年ぶりに書かれたこの小説を「最高の自信作」と言い切ったという。