ほんの記憶5:人間臨終図巻(山田風太郎、徳間文庫等)
なんだろうか、これは? 読書のすすめでもなくネットで引っかかったわけでもなく、本屋でぶらぶらしておもしろい本はないかと探していた時に見つけた。著者、山田風太郎。子どもの頃、忍者ものを読んだかすかな記憶があるが、それっきりだった。しかし、これが大当たり! 面白すぎた。九百人に及ぶ古今東西の歴史上の著名人、政治家、芸術家、スポーツ選手、犯罪者等々の死に際がドライな筆致で描かれる。一人一人の死にまつわるエピソードの多彩さ、死に対するドライな視点、考察の深さ、あるいはやさしさ……。
山田風太郎はどうしてこういうものを書こうと思い立ったのだろう。たぶん、死が好きなのだろう、いや、死を考えるのが好きなのだろう。<〇〇歳で死んだ人々>とほぼ1歳きざみで項をたて、風太郎自身や、おそらく風太郎が気に入った他人の言葉を前文のように付けている。「自分の死は地球より重い。他人の死は犬の死より軽い」「同じ夜に何千人死のうと、人はただひとりで死んでいく」。こういうことはなかなかサラリとは書けないものである。他に「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」(正宗白鳥)、「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)、「人間は正視することが出来ないものが二つある。太陽と死だ」(ラ・ロシュフーコー)等々、どれも身に染みる言葉だ。
山田風太郎とはどういう人だったのか。「懐かしい、昔の、いい人ーーと言ったら山田風太郎さんだ」という一文で始まる分析がある。サンデー毎日(2004年12月12日号)に連載されていた中野翠のエッセイ「満月雑記帳」に出てくる。少し長いが引用する。<……風太郎さんは「精神病患者の心的特徴」(クレッチマーの分類によるもの)を引き合いに出して「余は慄然とせざるを得ない。余もこれである」と書いている。その心的特徴というのは「彼は敏感であると同時に冷淡なのである」「冷やかなエゴイズム、過度の自尊心、不断の自己分析癖が絶えず彼を追い立てる結果、彼の生涯は憩いなき苦悩の連続である」「彼らと人々との間には『硝子板』が存在する」うんぬん……中略……その通りだったんだろうなと思う。風太郎さんの自己分析は正しかったんだろうなと思う。ある種の冷淡、無関心、エゴへの執着。それでも私は、山田風太郎さんを「いい人」と感じる。図々しい言い方をすれば、私にも似たところがあるせいかもしれない>
あつかましい言い方を許してもらえば、わたしも似ている。わたしは四十代で結婚したのだが、その結婚式で、会社(新聞社)の上司に祝電をもらった。司会の女性が読み上げたのだが、通り一遍の祝いの言葉の後、簡単な私の人物紹介に及び、その中に「彼は落ち着いた男です」という言葉があった。ほめ言葉ではない。新聞記者として二十年近く働いてきて、いつも言われたのが「騒げ」ということだった。いったんことあれば寝ていようが飯を食っていようが猛然と立ち上がって猪突猛進する、それが記者魂なのだ、「おまえに足りないのは情熱なんだよ」というようなことをよく言われたものである。ある種の冷淡、無関心、エゴへの執着が、まちがいなくわたしには、ある。しかしなにも結婚式で言わなくても……祝電の掉尾を飾る「もっと馬のようにいなないて、駆け出してほしい」という言葉を、わたしは腹の中に鉛をのんだような気分で聞いていた。
横道にそれた。その横道も含めてつらつらと書き連ねたことを読み返してみると、人間はやはり言葉だなと思うのである。大きな業績を残した人でも、つまらない言葉しか残っていないのは退屈だ。平凡な人生も言葉によって深くもなるし、色もつく。わたしの今の年齢である六十歳で死んだ人を見てみると、映画監督の小津安二郎がいた。国立がんセンターに入院し、見舞いに来る客には誰にも「なおったら一本とろうね」と繰り返していたらしい。しかし、それもかなわず還暦の誕生日に死んだ。その約八カ月後、小津の死に際して「柩にはいって、おやじさんは鎌倉に帰ってきた。おやじさんの好きだった赤い紅葉が、二ひら、三ひら散りかかった」と書いた俳優佐田啓二が死んだ。小津映画を飾った名花原節子は彼の死とともにしずかに消えた。一編の映画を見るような風太郎の筆は「小津の墓碑銘はただ『無』の一字である」と結んでいる。
「人間臨終図巻」は人間を学ぶ書だ。学びがこれほど楽しくていいのだろうか。