ほんの記憶4:ユダよ、帰れ(奥田知志、新教出版社)

 著者の奥田さんは北九州市八幡東区にある東八幡キリスト教会の牧師で、若いころから30年以上にわたりホームレスの人々の生活支援を続けてきた人である。コロナ禍の中で初めてお会いし、その考え方や炊き出し活動等のルポルタージュをネットニュースに連載した。新聞社に在籍していた頃から存じ上げていたのだが、なかなか取材する機会を持てなかった。新聞社を辞めて、ネットニュース会社と委託契約を結びさまざまな記事を寄稿する中でようやく実現したのだった。7回プラスコラム1回の連載は、ネットニュースで流した記事の中で最長だった。それだけ奥田さんの考え、活動に傾倒したわけである。しかもこれは第1弾で、第2弾を取材、執筆予定だった。第1弾では奥田さんその人を描いたので、第2弾では取り巻く人々、ご家族や奥田さんが理事長を務めるNPO法人「抱樸」スタッフの方々、あるいは奥田さんの幅広い人脈の中から取材を受けてくれる人をつかまえてインタビューするつもりだった。が、ネットニュース会社の社長に「もういらない」と言われて発表の場を失った。わたしとしては成功した記事と思っていたのだが、社長にとってはそうではなかったようだ。わたしはすべての寄稿を打ち切り、この会社との縁を切った。1年ごとの委託契約を更新せず、向こうも何も言ってこなかったので自然消滅ということになる。

 前置きが長くなったが、この欄で第2弾をやろうというわけではない。ホームページの性格上他人にも呼んでもらうことを想定してはいるが、主たる目的ではない。ここはあくまでもわたしの趣味の広場であって今のところ仕事の場ではない。ただ、第2弾を告知していた手前、申し訳なく、関係者にはその旨お伝えし謝罪したのだが、どうもまだむずむずしている。わたし自身のけじめの一つという意味もある。

 「ユダよ、帰れ」は、取材のさなかに発行された奥田牧師初の説教集である(説教のことを東八幡教会では宣教と呼ぶが、ここでは便宜上説教と呼ぶことにする)。わたしはクリスチャンの多い長崎市で生まれ育ったが、子どもの頃に教会を訪れたことはなかった。長じてからも取材で何度かいくつかの教会を訪問したが、個人的に訪れたのは東八幡教会が初めてである。妻子も連れて行った。奥田さんの説教は1時間近くあったが、非常に印象深かった。わたし自身はキリスト者ではなく、葬式仏教だけを折に触れて活用するのが宗教との実際的な関わりだ。しかし、宗教的な話を聞くのは嫌いではない。

 この文章は東八幡教会のオンライン説教を聴いた後で書いている。この日の奥田牧師の説教はマルコの福音書8章1~10をテーマにしたものだった。荒野で、少量のパンと小魚しかない状況で、イエスが腹をすかせた四千人の群衆にパンと小魚を配り満腹にさせた、という話。弟子たちも「こんな人里離れたところで、群衆に十分に食べさせることはできない」と絶望する中、イエスはあきらめない。どうやってかはわからないが、パンと小魚を群衆に与える。「そりゃだめよ、できるわけない、無理無理無理ってみんなすぐ言いますね。この状況もそう。でもイエスはあきらめない。パンをちぎっては投げちぎっては投げして『どや』って顔をするんです」。牧師らしからぬ(かどうか本当は知らないが)こうした話を聞いてわたしは安心する。奥田節は健在だ。どう言えばいいのか、さっきわたしは宗教の話は嫌いではないと書いたが、宗教くさいのは嫌いなのだ。宗教くささとは何か。正義感に溢れすぎているというのが一つ、それゆえ押しつけがましいというのがもう一つ。考えればまだ出てくるかもしれない。奥田節は宗教くさくない。わたしは元気づけられる。わたしにもキリスト教がわかる、信者じゃないけれど、そう思える。

 奥田さんはまた別の日、次のような話をした。東八幡教会では身寄りのないホームレス(路上生活者や生活困窮者、このへんは微妙な言葉の綾があるが今は深入りしない)が亡くなると葬儀をするのだが、亡くなった人の家族、親族をどうにか捜し出せた際には連絡して葬儀に参列してくれるよう依頼する。ほとんどの家族、親族がにべもなく断るという。「もうかかわりたくない」と。亡くなった人に生前いかに苦労させられたか、それは想像するすべもないが、しかしもう亡くなったのだ、最後のお別れを……こうした願いはほとんどが無視される。しかしその中で、葬儀当日になって、予想に反して、ふいに姿を見せてくれる人もいる。「どうしてだかわからない。でも来てしまいました」。そう言って故人を前に瞑目する人。奥田さんはこうした人に、行為に、真の価値を見いだす。正義ではない、善意でもない、道徳、道理、倫理、合理、すべて違う。理由はわからない。なんだかもやもやしたもの。でもそうせずにいられなかった。「これを愛というのではなかろうか」……。

 「ユダよ、帰れ」にはこうした説教が集められている。「コロナの時代に聖書を読む」という副題が付けられている。2020年4月の礼拝で話されたのが最初の一編だ。そして今、コロナは完全にとはいえないが、終わった。奥田さんは「コロナ前に戻ってはいけない」と言っていた。どういうことか。コロナ前の世界がそんなにいい世界だっただろうか、ということだ。新たな価値観を創り出さなければならないのではなかろうか。もっとやさしい生き方を探してもいいのではないか。そう願う人へのヒントが、この本には詰まっている。