ほんの記憶17:水中の哲学者たち(永井玲衣、晶文社)

 わたしの娘といってもいい年ごろにみえる著者であるが、精神的にわたしと通じ合うものがあるなあ、などと考えながら読み進めた。一緒に酒を飲んだらうまいだろう。

 新聞記者をやっていたころ、わたしはよく酒を飲んだが、ある先輩と一緒に飲むのが好きだった。その先輩もよく飲み、よく酔っぱらう。仕事も熱心にやるのでいつも会社に夜遅くまでいる。「ちょっとメシを食いに行きましょう」と誘うと、「じゃ、ちょっとだけ」と言って出てくるのだが、当然のことながらこれが「ちょっと」ではすまない。飲んだくれてわたしはタクシーで家に帰り、先輩は会社の当直室に泊まったりする。先輩にも無論、家はあるのだが、タクシーで帰ると必ず荷物を車内に忘れてしまうのだ。だから会社に泊まる。明日の仕事に差し支えることを最小限にとどめたい、という思いもあったかもしれない。

 先輩は大学時代の専攻が哲学科だった。特に哲学に関する話をした覚えはないし、話の内容などほとんど覚えてもいないのだが、ただ気持ちよく飲んだことだけを覚えている。その気持ちよさが「水中の哲学者たち」を読んだ感じと重なるのである。共に飲むことが気持ちよい、本を読むことが気分がいい、どうしてかと言われても困る。仕事に限らず、過去の出来事や、思い出の人、考えるべき将来の道筋、言葉にすると固くなるが、そうした諸々のことを話し合うことが楽しかった。

 本を読むことも気持ちがいいときがある。著者と話をしているような気になる時だ。何かを他人と語り合うことは心地よいのである。わたし流にいえば、哲学とは、このように気分のいい語り合いなのだと思う。小難しいことなどなにもない。そういうネタを忌避するわけでもないのだが、小難しいことをムツカシイままに語り合うことはできないように思う。どうにかして自分の中のごちゃごちゃを整理し、持ちにくい器に取っ手を付けるような感覚でもって相手に自分を差し出す姿勢が必要だ。哲学とはそういう努力のことではないのか。この理論は分かるとか、分からないとか、そういうことはどうでもよくて、ただなにかを交わす、ということに傾注することが哲学的なのだと思う。

 この本に、こんな一文があった。「10代の頃、問いにならない問いを抱えて立ち尽くしていたとき、世の中にはどうやら『考える』ということがあることを知った。それは『哲学』と呼ばれていて、当たり前だと思われていることに対しても問いを投げかけていいらしかった」。合理的で、主体的な、そして不安定な時代を生き抜く力を持つことを是とする世の中が当たり前なものとして眼前にある。そんな現実に「そうなのか?」と疑問を抱く、「いや、違うのではないか」、「私が間違っているのかもしれないが、ひょっとしたら世の中が間違っているのではないか」、そんな疑いさえ抱いていいのだということを、この著者は10代の(おそらく)終わりごろに知ったのだ。そして「わたしは祈る」と語る。「どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように」

 考えることのみに価値がある。正しいとか、間違いとか、得とか損とか、どうでもよい。なにがわたしは気持ちいいのか。決まっている。あなたと共にいるときだ。あなたと酒を酌み交わすとき、言葉を交わすとき、生きている実感がある。そのほかには実は、なにもいらない。そのようなかけがえのないものが酒、じゃなかった哲学なのである。あぁ、うまい酒をのみたい。