ほんの記憶16:海も暮れきる(吉村昭、講談社文庫)
俳人・尾崎放哉の死の記録である。放哉の名は初めて知った。東京帝国大(現東京大)卒、大手の保険会社に入社したものの酒が原因で退社。妻とも別れ、漂泊の旅に出た。といえば、よくある破滅型の人間の、どこか格好良さも匂う人生の道行きにも思えるが、そんなに生やさしい小説ではない。「どうにもならなくなれば酒でも食らって海へ身を投じればよい」。放哉自身、死に場所となった小豆島へ渡る際にはまだ、そんな考えがあった。しかし、人の死というものはそうはいかない。人は死の際におよんで身体不如意に陥れば、海に身を投じることなどかなわない、食べることも飲むこともできない、排泄さえもままならない、ということなのだ。死に向かう花道などというものはないのである。
「海も暮れきる」は後に「吉村昭自選作品集 第十巻」に「冬の鷹」という作品とともに収録された。その後記で、吉村自身が述べている。「この巻におさめた二編は、伝記文学という部類に入るのだろう。・・・(中略)・・・あくまでも主人公そのものがどのように生きたかが作品のすべてになっていて、伝記文学と言っていいのだろう、と思うのである。当然のことながら、二編の主人公に対する私の思い入れは深く、その生き方に強い共感をいだいている」
この物語は、放哉が人生の挫折を味わったあげく病におかされ、死をも覚悟して小豆島を訪れるところから始まる。一流の大学を出、一流会社に勤めたものの酒が原因で職を辞し、妻とも別れて寺男となった。その酒癖の悪さの描写をひくと、「暴力を使うことはなかったが、酔うにつれて顔は青ざめ、相手を見据えて傷つけるような言辞を吐く。酔いが頭脳を異常な形で冴えさせるらしく、相手の感情の動きを鋭く察知し、辟易した相手が放哉の機嫌を直そうとすると、それを阿諛と解し、一層刺すような言葉を執拗に浴びせかける。かれの加わる酒席は白けるのが常で、親しい者もかれと酒を酌み合うことをことを避ける」。放哉は数少ない自身の理解者、支援者に対しても、金の無心をするときとはうって変わった恨みつらみの感情を抱き、あちこちで誰彼となくからみつくような言葉を吐きかける。
なにがたのしみで生きてゐるのかと問はれて居る
小豆島で世話してもらった寺に住み、放哉は句作を続けた。放哉の俳句は自由律の作風で、その奔放さが魅力である。
火の気のない火鉢を寝床から見て居る
病に伏し、日々、死に近づいてゆくなかで、句を詠み続ける。思い通りにならない生のせめてもの慰みだったのだろうか。島の人々には坊さんに対する尊敬があるのか、近所の漁師の女房のシゲさんが世話をしてくれるのが幸いだ。時間の経過とともに食物ものどを通らず、水を飲むのにも苦労し、当然のことながら好きな酒も飲めなくなってゆく。医者を呼んでも根治療法はない。発熱を繰り返し、やせ衰え、起き上がるのもままならない中で、下の世話もシゲさんに頼まなければならない。酒を食らって海に身を投じるなぞ、どだい無理なはなしなのである。死はドラマではない。苦渋の現実である。彼はシゲさんに言う。「弱りましたよ、弱りましたよ」。自然に涙が流れる。
はるの山のうしろからけむりが出だした
骨と皮だけになって詠んだ最後の句が、放哉の命日に建立された句碑に刻まれた。享年42歳。命を最後のひとしずくまで絞りつくし、海がとっぷりと暮れるように死にきったのである。