ほんの記憶10:屋根屋(村田喜代子、中公文庫)

 楽しい読書だった。村田喜代子の小説を読んだのはこの「屋根屋」が最初である。読了後、飛族、エリザベスの友達、焼野まで等々この作家の作品を矢継ぎ早に読むことになった。そしてどれも面白かった。わたしは面白くない本は途中で、それが本の最初だろうが最後の方だろうが読むのをやめてしまうのだが、すべて読了した。いわゆる肌があったというやつだろう。読むこと自体が楽しかった。

わたしは子どものころから夢をよく見るほうで、たいていは何かに追いかけられる怖い夢なのだが、ある日、その恐怖からの脱出法に気づいた。これは夢である、そう強く思うことで夢であることが分かる。そのことに気づいた。頭で考えるだけではなく、足元などに注意を向ける。そうすると、いつもと違うふわふわした感じがある。きちんと地に足を付けていない感じといえばいいだろうか。あ、これは夢だ、夢に違いない、だから何をしても傷つかないし、死ぬこともない、わたしはそう考えてよく空を飛んだ。自宅前の崖に向かって全速力で走り、そのままジャンプーーー。すぐに目が覚める時もあるが、調子のいい時は家の周囲から外れて住んでいた長崎の街並みを見ながらいつまでも飛ぶことが出来た。気持ちよく、楽しい体験だった。

「屋根屋」は、屋根の修理を業とする中年男(おそらく。年齢が設定されていたかどうか忘れてしまった)と、発注者であるところの家庭の主婦たる中年女性(同)の、夢を媒介にした夢物語(といってはおかしいか、ならば恋物語としておこう)である。屋根屋は妻に先立たれて10年、夢日記をつけてきた。そして夢の中で、現実から解き放たれた別世界で遊ぶ術を身につけた。全国あるいは海外の名所名刹に飛んで、そこの屋根を見たりして楽しんでいるという。中年女性の「私」はうらやましく思う。すると屋根屋は、夢は重なり合うことができるという。二人の見る夢が重なり合う、二人で同じ夢をみる。最初はおっかなびっくり、次第に大胆に、福岡の東経寺や奈良・法隆寺の五重塔など国内の名刹のみならずフランスのシャルトル大聖堂なども訪れる。現実と同じように語り合い、笑い、酒を飲む。そんなことは夢物語だろう、といったところで夢とはじめから断っているのである。夢はうつつかうつつは夢か、夢とうつつの境界があいまいになってくる危うさの中にほのかな色気が匂う。

 たかが夢、ではない。しょせん人生は一幕の夢だろう。宇宙何万光年の中の塵芥に等しい私の生。夢の中で夢がかなうなら、それは大願成就とどこが違うのか。夢が醸す空間は私の精神そのものである。子どもの頃にみたような空を飛ぶ夢をもう一度みたい。屋根屋の技術を盗もうか。その技術とは……なかなか難しい。一読してもよくわからない。そこがミソだ。実はだれもが夢をみる固有の技術をもつ。夢と自由は同義語だということである。